豊田正子の「綴方教室」
 


自転車がないと暮らせなかった

    昭和22年春、疎開先から戻り発足したばかりの新制中学一年生になった私は文芸部に入り、
   顧問の池永先生の指導で、生活作文を書くようになった。
   戦後二年、戦災で焼野原の中での貧しい生活を、ありのままに書いていたのだが、
   その年の暮、我が家の自転車が盗まれて途方に暮れたものの、犯人が捕らえられ、自転車も戻り、
   貧しくとも明るい新年(昭和23年)を迎えられたことを「自転車」と題して書いた処、
   先生から豊田正子の著書「綴方教室」に「自転車」と題するのがあるから読めと同書を示され、
   豊田正子と「綴方教室」を初めて知った。

    昭和初期の、東京の下町の貧しいブリキ職人一家の生活を、長女である正子がありのままに
   書き綴り、鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」の懸賞に当選した作文集で昭和12年に出版。
   翌13年に映画化(東宝・監督山本嘉次郎 主演高峰秀子)された名作。
   先生から貸し与えられたのは初版だったようで、紙質も装丁も立派で分厚かった。
   戦後間もない当時の出版物は紙質が粗悪で薄っぺらで、色彩もなかったから目立った。
   内容は、貴重な商売道具である自転車を盗まれた一家の悲哀が、活写されていて他の作文と合せて
   一気に読んでしまった。何よりもありのままの会話による情景描写が見事であった。
   父親が自転車を盗られた時の説明は次の通りである。

    父ちゃんは「おれがな、平田さんの家へいったら、あいにくと。だんながお湯へいって、
   るすなんだよ。あのだんなときたら、とってもお湯はなげえんだから。
   で、おらァ、おうせつしつへいって、ストーブであたりながら、おくさんとくだらねえ
   せけんばなしをしてたんだ。そうして、一時間ばかりたつと、だんなさんがかえって来たからよ、
   かんじょうをもらってさ。げんかんの戸をあけてみたら、おらァ、ぎくっときたな。
   もう、自転車がねえんだ」といった。

    自転車を盗られた父親の嘆きだけでも、これだけ長く綴るのは、学校での限られた作文の時間や
   宿題だからと嫌々書いた作文には無いことで、私の書いた「自転車」もその域を出ていなかった。
   そこで豊田正子の「自転車」をお手本に書き直したら、当然のことながら、
   我が家の自転車盗難騒ぎの会話は大阪弁で、豊田正子の作品と同様に長文になった。

   文章そのものは豊田正子に及ばずとも、盗まれた自転車が戻って来たハッピーエンドが救いで、
   明るく書き終えられ、先生からは「よく書き直した」と褒められ、文芸部の機関誌に掲載されたのを
   読んだ友人の姉さんから「会話が生きている」と評されて嬉しかった。

    実際、自転車は貴重な生活道具であった。豊田正子が綴った太平洋戦争以前にも増して、
   敗戦後の焼け野原の街では、自転車がないと商売にも仕事にもならなかった。
   電車、バス、電話も不十分で人と人の連絡や所用のための往来、通勤、リヤカーを取り付けての
   物品運搬等に欠かせず、喉から手が出るほど欲しくとも、新品での入手は至難であり、
   最も手短かな盗難の対象になり、被害者は悲惨だった。我が家の自転車も戻らなかったなら、
   大阪へ帰って初めての正月も暗く、作文も書けなかっただろう。

    敗戦国の自転車をめぐる悲哀は、何処も同じだった。我が家の自転車泥棒騒ぎを
   作文にした同じ年。イタリアのビットリオ・デ・シーカ監督の映画「自転車泥棒」が生まれる。
   翌24年春、両下肢マヒが起きた私は以後何年も映画館に行けず、TX時代になって
   淀川長治の「日曜洋画劇場」でも見た記憶がなく、その後のNHK教育TVの「世界名画劇場」と
   「衛星放送」で何度も見ることになる。

    敗戦直後のローマで失業中の父親が、街のポスター張りの仕事にありつくのに必要な古自転車を
   漸く手に入れたのを、仕事始めに盗まれて途方に暮れた挙句、他人の自転車を盗んでしまう姿を
   息子の少年の目を通して描かれたイタリアン・リアリズムの代表作である。
   同じ頃、ケーブルTVで映画「綴方教室」を見て録画。繰り返し見ることになった。

    両作品が白黒フイルムであることの、写実感が強く漂い、どんなに貧しくとも身体さえ健康ならば、
   その日の糧を得るために親を助けて働く豊田正子や映画「自転車泥棒」の少年の姿が、
   歩行不能になって長男でありながら、どん底生活の家計に何等寄与出来ぬことを最大の苦痛として、
   十代後半を過ごした私には眩しく羨ましかった。

    どん底生活の頃、父の留守中に内職をしていた私と、傍に居た母の不注意から、自転車が
   盗まれ戻って来なかったことを苦にして、自分の食事を減らして、償なおうとした思い出とも重なった。
   戦後十年近くを経ても、尚、自転車泥棒が横行していたのである。
   豊田正子の「自転車」をお手本に、自らの作文を大阪弁の会話をふんだんに使って書き直した頃が、
   堪らなく懐かしかった。
   

                    平成17年8月記      吉本  昭